フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

染(ぜん)浄(じょう)の二(に)法(ほう)

大白法・平成19年9月16日刊(第725号より転載)教学用語解説(118)

 「染(ぜん)浄(じょう)の二法」とは、「染(ぜん)法(ぽう)」と「浄(じょう)法(ほう)」をいいます。染法とは、迷いの生命である無(む)明(みょう)のことで、十界に約せば九界を指します。浄法とは、悟(さと)りの生命である法(ほっ)性(しょう)のことで、十界に約せば仏界を指します。
染法と浄法
 染法の「無明」とは、成仏を妨(さまた)げる一切の煩悩(ぼんのう)の根源です。これは十(じゅう)二(に)因(いん)縁(ねん)の最初にも挙げられ、天台大師は煩悩に三種ありとして、見(けん)思(じ)惑(わく)・塵(じん)沙(じゃ)惑(わく)・無(む)明(みょう)惑(わく)の三惑の一つに挙げています。
 見思惑の見惑とは、物事の道理に対する偏見(へんけん)の迷いで、思惑とは物事に執(とら)われて起こす本能的情動的な迷いをいいます。塵沙惑とは、衆生を救済する際に、塵抄のごとき無数の差別の相に暗い迷いをいいます。
 そして無明惑とは、差別的な世界観によって中道実相の理に迷うことをいいます。分けても無明の最も根源的なものを元品(がんぽん)の無明といい、この無明が諸(もろもろ)の煩悩の根源をなしているのです。
 衆生は、この無明煩悩を根源として悪業を重ね、その果報として諸の苦しみを受けるのであり、この無明煩悩に支配された九界の迷いの生命を染法というのです。
 また、浄法の「法性」とは、一切の諸法が本然的に具(そな)えている真実不変の性分のことで真如(しんにょ)・実相または仏界・仏性ともいわれます。すなわち浄法とは、金(こん)剛(ごう)不(ふ)壊(え)にして清(しょう)浄(じょう)なる生命をいいます。
無明即(そく)法性
 妙楽大師は、『法華玄義釈(しゃく)籤(せん)』に、

「染浄不二門とは、若(も)し無始より法性に即(そく)して無明と為(な)ることを識(し)らば、故(もと)より今、無明に即して法性と為ることを了(りょう)すべし」

と、染浄の二法である無明と法性が一体不二であることを示しています。
 爾(に)前(ぜん)経(ぎょう)においては、染浄の二法は、二元的に隔絶(かくぜつ)されたものであって、染法(煩悩)を断ずることによって初めて浄法(悟り)を得ることができると説(と)かれました。
 しかし法華経に至(いた)ると、迹(しゃく)門(もん)では二(に)乗(じょう)成(じょう)仏(ぶつ)が明かされて理の一念三千が説かれ、法華経本門『寿量品』に至って釈尊の久(く)遠(おん)常(じょう)住(じゅう)の命が明かされて事の一念三千が説かれました。ここにはじめて、真の九界即仏界・仏界即九界の即身成仏が確立したのです。
 法華経の結経である観普賢菩薩行法経には、

「煩悩を断ぜず、五欲を離(はな)れずして、諸根を浄(きよ)め、諸罪を滅除(めつじょ)することを得」(法華経六一〇頁)

と、煩悩を断じ尽(つ)くさなくても煩悩がそのまま悟りの当体であり、相即不二であることを説かれています。
善縁とは
 日蓮大聖人は『当体義抄』に、

「法(ほっ)性(しょう)の妙理に染(ぜん)浄(じょう)の二法有り。染法(ぜんぽう)は薫(くん)じて迷ひと成り、浄(じょう)法(ほう)は薫じて悟りと成る。悟りは即ち仏界なり、迷ひは即ち衆生なり。此(こ)の迷(めい)悟(ご)の二法、二なりと雖(いえど)も然(しか)も法性真(しん)如(にょ)の一理なり。譬(たと)へば水(すい)精(しょう)の玉の日(にち)輪(りん)に向かへば火を取り、月(がつ)輪(りん)に向かへば水を取る、玉の体一なれども縁に随って其(そ)の功(く)同じからざるが如(ごと)し。真如の妙理も亦(また)複(また)是(か)くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇(あ)へば迷ひと成り、善縁に遇(あ)へば悟りと成る。悟りは即(すなわ)ち法性なり、迷ひは即ち無(む)明(みょう)なり」(御書六九二頁)

と仰(おお)せです。
 衣服に香(こう)を薫(た)き込(こ)めば衣服に香(かお)りが染(し)みいるように、煩悩・業・苦が染み込んだ生命は迷いの衆生(九界)となり、逆に清浄な香を薫き込んだ生命は、悟りの衆生(仏界)となって顕(あらわ)れることを「法性真如の一理」と説かれています。しかしまた、真如の妙理は、無明である染法と法性である浄法はそれぞれが別のものとして存在しているのではなく、悪縁に遇えば迷いの無明となり、善縁に遇えば悟りの法性になるのです。
 今日の現代社会は、果てしない欲望、争い、不正が渦(うず)巻(ま)く混迷の世となり果てています。
 しかし、こうした暗い迷いの染法に支配された悪世にあっても、それに染(そ)まらず、紛動(ふんどう)されず、清浄なる生命を確立する方(ほう)途(と)を日蓮大聖人は説き明かされています。
 すなわち、日蓮大聖人は、「染法」を「浄法」に転ずることのできる最勝・最尊なる「善縁」として本門の本尊を御(ご)図(ず)顕(けん)されたのです。
 『当体義抄』に、

「正直に方便(ほうべん)を捨(す)て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩(ぼん)悩(のう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般(はん)若(にゃ)・解(げ)脱(だつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処(ところ)は常(じょう)寂(じゃっ)光(こう)土(ど)なり」(同 六九四頁)

と仰せのように、私たちは大聖人の文底下種の御本尊を微(み)塵(じん)の疑いもなく信じて、そして南無妙法蓮華経と本門の題目を唱えることにより、染法たる迷いの生命を浄法たる悟りの生命である三徳へと転じ、真の即身成仏の本懐(ほんがい)を遂げることができるのです。

平成二十一年に向かって

 御法主日如上人猊下は、

「人間は善い縁に触れれば自然と善い方向に向かいますが、悪い縁に触れますと、いつの間にか悪い方向に行ってしまいます。(中略)幸せな人生を送ろうとするならば、正しい大聖人様の教えに縁していくことが一番大切なのであります」(大白法六九九号)

と御指南され、正しい大聖人の教えに縁することが善縁であり、幸せな人生を送る唯(ゆい)一(いつ)の方法であることをお示しです。
 我々が善縁となり、迷いの中で苦しんでいる人々を悟りの境界へと転じていけるよう、より一層(いっそう)、折(しゃく)伏(ぶく)行(ぎょう)に励(はげ)んでいきましょう。