娑婆即寂光

大白法・平成8年10月16日刊(第465号より転載)教学用語解説(21)


娑婆(しゃば)即(そく)寂光(じゃっこう)

 裟婆とは、六道の凡夫と聖者とが同居する苦悩(くのう)汚穢(おわい)の忍土(にんど)(凡聖同(ぼんしょうどう)居土(こど))をいいます。四土(凡聖同居土・方便(ほうべん)有余土(うよど)・実報(じっぽう)無(む)障(しょう)礙土(げど)・常(じょう)寂(じゃっ)光(こう)土(ど))の中の凡聖同居土には、浄(じょう)土(ど)・穢土(えど)の別があり、その穢土を指して裟婆というのです。
 寂光とは、四土の中の常寂光土のことで、法身・般若・解脱の三徳が一体となった浄土をいいます。
 「常」とは法身、十界三千の一切に遍満(へんまん)する真理を身となす仏が本(ほん)有(ぬ)常(じょう)住(じゅう)であることをいい、「寂」とは解脱、煩悩の惑乱(わくらん)がないことをいい、「光」とは般若、すべてのありさまを如実(にょじつ)に照らす智慧のことをいいます。
 これら裟婆と浄土の二土が、相即不二であることを示したのが裟婆即寂光です。
 爾前経には、凡夫の住する裟婆世界を穢土、二乗の住する国土を方便土、菩薩の住する国土を実報土、仏の住する国土を寂光土というようにそれぞれ区別して説いており、裟婆世界に他の国土が相即するということは説いていません。
 ところが、『法華経』の本門寿量品では、
 

「我常(つね)に此の裟婆世界に在(あ)って説法教化す。亦(また)、余処(よしょ)の百千万億那由佗阿僧祇の国に於いても、衆生を導利(どうり)す」(開結 498頁)


と、爾前権教において穢土と説かれた裟婆世界こそが仏の住する仏国土、すなわち寂光土であることが説き明かされるのです。
 これを妙楽大師は『法華文句記』に、
 

「豈(あに)伽耶(がや)を離れて別に常寂を求めんや、寂光の外に別に裟婆あるに非ず」


と述べています。
 日蓮大聖人は『守護国家論』に、
 

「爾前の浄土は久遠(くおん)実成(じつじょう)の釈迦如来の所現の浄土にして実には皆穢土なり(中略)寿量品に至りて実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了(おわ)んぬ」(御書 155頁)


と、方便・実報は仏が開き説いた浄土にして、本来、裟婆に即する浄土であることを御教示され、さらに『一生成仏抄』に、
 

「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし」(御書 46頁)


と、衆生の心が清ければ、六道の衆生が住する迷いの世界(娑婆)は、即、仏の悟りの世界(寂光土)になると御教示されています。
 ゆえに、裟婆即寂光の真の意義は、『当体義抄』に、
 

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道、法身・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観(さんがん)・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常(じょう)寂(じゃっ)光(こう)土(ど)なり」(御書 694頁)

とあるように、御本尊への正直な信心と唱題によって感得することであり、さらには『立正安国論』に、
 

「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり」(御書 250頁)


とあるように、広宣流布して仏国土を建設していくことなのです。