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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

宿業

大白法・平成12年2月16日刊(第543号より転載)教学用語解説(56)


宿(しゅく)  業(ごう)

 「宿業」とは、過去世に積んだ業因(ごういん)をいいます。衆生が身(しん)・口(く)・意(い)にわたってなすところの一切の行為・言動・思考などのすべてが、「善因善果、悪因悪果」という因果の道理によって善悪の業として積み重なり、現世において、その果報を色心(肉体と心)に受けるのです。

 個々の言動・思考等によって積まれる業、受ける果報は様々ですが、我々末法の衆生は一々の善悪の業の多少・軽重にかかわらず、一人も漏れず、過去遠々劫(おんのんごう)からの罪業を自らの生命に深く刻み付けています。すなわち、過去遠々劫以来、悪業を積み重ね、その果報として現世において様々な苦しみを受け、その苦はさらに未来に存続していくのです。

 さらに言えば、『佐渡御書』に、
 

「涅槃(ねはん)経に仏(ほとけ)光(こう)明(みょう)を放ちて地の下一百三十六地獄を照らし給ふに、罪人一人もなかるべし。法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり。但し一闡提人と申して謗法の者計り地獄守(もり)に留められたりき。彼等がう(産)みひろ(広)げて、今の世の日本国の一切衆生となれるなり」(御書 581頁)


とあるように、末法は過去遠々劫以来、正法を信受できずに背反(はいはん)し、謗法の重い罪業を積んだ衆生ばかりが生まれてくるのです。

 現実に私たちを取り囲む世の中を見ると、まさに仏の予証されたとおりの濁(じょく)乱(らん)の様相を呈しており、また一人ひとりの上にも様々な苦悩がつきまとっています。『兄弟抄』に、

「我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ」(同 981頁)

と仰せのとおり、末法に生を受けた私たちは、過去からの生死の繰り返しの中で、正法に背(そむ)いて謗法を重ねてきたことは疑いありません。

 故に、目先の欲望・煩悩のまかせるままに振る舞い、悪業を積み重ねて種々の苦悩を受け続けていくならば、来世においても地獄・餓鬼・畜生等と六道を輪廻(りんね)し、未来永遠にその苦しみを背負い続けていくことになってしまいます。
 
 正法受持の功徳により悪業は必ず消滅される

 では、この悪業を消滅して現世の苦を抜け出し、来世の苦しみを免れるためには、どのようにすればよいのでしょうか。それは、唯一の正法たる大聖人の仏法を信受し、広宣流布に挺身(ていしん)する以外にはあり得ません。『法華初心成仏抄』に、
 

「人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起(た)つが如し」(同 1316頁)

と仰せのように、正法に背いたことによって積んだ謗法の罪業は、正法を信じ、実践することによってのみ消滅させることができるのです。

 これについて『佐渡御書』に、
 

日蓮も又かくせ(責)めらるゝも先業なきにあらず(中略)我今度の御勘気は世間の失(とが)一分もなし。偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(同 580頁)


と、示(じ)同凡(どうぼん)夫(ぷ)のお立場から、御自身は佐渡配流の御難を受けられたことによって重罪の宿業を消滅した、と御教示されています。

 このことについて同抄には、経文を引かれて謗法の果報としての苦を八種挙げられたのに続き、
 

「此の八種は尽未来際(じんみらいさい)が間(あいだ)一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによ(依)て一時に聚(あつ)まり起こせるなり」(同 582頁)


とも仰せになっています

 これらの御金言は、種々の悪業の故に大苦悩を受け続け、死して無間地獄に堕ちるべきところを、正法を信じ行じる者は、
 

「及び余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯(これ)護法の功徳力に由る故なり」(同)


と、一時にして軽く受けることにより、その重罪を消滅することができると御教示されているのです。

 また、『転重軽受法門』の中に、
 

「涅槃(ねはん)経に転(てん)重(じゅう)軽(きょう)受(じゅ)と申す法門あり。先業の重き今生につ(尽)きずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっとき(消)へて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をう(得)る事の候」(同 480頁)

とあります。私たちが大聖人の正法を固く信受し、一生懸命に唱題に励み、さらに正法を信じていない他の人にもこの信心を勧めるときには、必ず相手から嫌われ、憎まれ、悪口を言われる等の様々な難を受けます。

 このときに受ける苦は、本来ならば地獄に堕ちて味あわなければならない大苦を、現世に軽く受けている姿に他なりません。そして、報(むく)いを受けたならば、その苦の原因となっていた悪業は消滅するわけですから、正法故(ゆえ)の難に遭えば遭うほどに過去の重罪が消え、その結果、現世において受けていた、あらゆる苦悩を解決し、さらに成仏も叶うのです。これを、重い罪業を転じて軽く受けるとの意から「転重軽受」といいます。

 自らが作った罪業の果報は、必ず自身が受けなければならないのは当然の道理です。しかし、私たちは、正法を信受する護法の功徳によって謗法の宿業を転じて軽く受け、現世の苦を免れ、さらに成仏の境界に到ることができるのですから、何と有り難いことでしょうか。
 
 悪業をも消し去る折伏行を大いに実践しよう

 大聖人は『顕立正意抄』に、
 

「彼の不(ふ)軽(きょう)軽(きょう)毀(き)の衆は現身(げんしん)に信伏随従の四字を加ふれども猶先謗(せんぼう)の強きに依って先づ阿鼻大城に堕し、千劫(せんごう)を経(きょう)歴(りゃく)して大苦悩を受く。今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者は、設ひ千劫をば経ずとも或は一(いち)無(む)間(けん)或は二(に)無(む)間(けん)乃至十百無間疑ひ無からん者か」(同 750頁)


と、たとえ大聖人の仏法を信じたといっても、それが名ばかりであるような信心の薄い者は、悪業を消すことができずに無間地獄に堕ちると、厳しい御教示をされています。
 

「宿業はかりがたし」(同 580頁)


との御金言のごとく、私たちは計り難い重業を持つ身であればこそ、日々の信心に励み、折伏を行じていくことが肝要なのです。