フレブル君日記

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地涌の菩薩

大白法・平成11年3月16日刊(第521号より転載)教学用語解説(46)


地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)

 「地涌の菩薩」とは、法華経『涌出品』において、釈尊の久遠の開顕を助けるために大地より涌出した六万恒河沙(ごうがしゃ)の大菩薩のことです。

 これらの地涌の菩薩衆は、釈尊の久遠以来の弟子(本化(ほんげ)の菩薩)で三十二相の大威徳を具(そな)え、その上首として上(じょう)行(ぎょう)・無(む)辺(へん)行(ぎょう)・浄(じょう)行(ぎょう)・安(あん)立(りゅう)行(ぎょう)の四大菩薩がいます。そして、これら四大菩薩に一切の地涌の菩薩が統(す)べられていますが、末法にはそれらのすべての徳を具えた上行菩薩ただお一人が出現されます。すなわち『寿量品』で久遠本果を開顕した釈尊は、『神力品』に至って上行菩薩に結要(けっちょう)付嘱し、末法における法華弘通を託されたのです。

 この末法弘通を託された上行菩薩の本地は、実は久遠元初自受用報身如来です。日蓮大聖人は竜の口の法難において、垂迹上行の身を払って、久遠元初の御本仏と顕本され、文底下種の大法たる三大秘法の大御本尊を建立されたのです。

 次に、文底下種の仏法における地涌の菩薩とは、御本尊の相貌(そうみょう)に明らかなように、南無妙法蓮華経日蓮の久遠元初人法一箇の法体に具わるところの菩薩界なのです。

 末法の一切衆生は、客観的な機から見ると、日蓮大聖人によって初めて妙法を下種される本未有善の荒凡夫ですから、地涌の菩薩ではありません。しかし『御義口伝』の
 

「今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」(御書 1764頁)

の文に明らかなごとく、大聖人の御当体たる御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える功徳により、私たちにも地涌の菩薩の命が涌現するのです。

 ただし『諸法実相抄』に、
 

日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(同 666頁)


と仰せのように、末法の衆生は御本尊を信ずる日蓮大聖人の眷属だけが、より正確には、大聖人滅後の今日においては、日興上人以来の血脈法水に連(つら)なる僧俗だけが地涌の菩薩の境界を開くことができるのです。しかし、そこには自(おの)ずから総別の義が具わるのであり、私たちはあくまでも大聖人の眷属たる「地涌の流類(るるい)」、すなわち地涌の菩薩の眷属であるとの謙虚な信心の姿勢こそが大切です。

 次に、『諸法実相抄』には、
 

「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつた(伝)ふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや」(同)


と述べられています。久遠元初の本仏本法たる御本尊に向かって題目を一心に唱え奉り、力強く折伏を行じていくところに真の地涌の菩薩の境界が開かれるとの御指南を深く拝さなければなりません。

 今日、現実に末法弘通という地涌の菩薩の使命を実践しているのは、日蓮正宗僧俗のほかにはおりません。御法主日顕上人猊下は宗旨建立七百五十年への出陣式において、

 

「妙法広布の大願をもって進む地涌の菩薩は、我ら日蓮正宗の僧俗、法華講の皆様のほかに、どこにありましょう。どこにもけっしてない、と断言するものであります」(大白法 517号)

と御指南されました。私たちは地涌の菩薩の眷属として、この尊い使命を自覚し、三十万総登山を目指し、折伏弘通に挺身(ていしん)することが肝要です。