フレブル君日記

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寺院の意義

大白法・平成15年6月16日刊(第623号より転載)教学用語解説(86)


寺院(じいん)の意義(いぎ)

 寺院とは、本尊や教巻を安置し、僧侶が居住して布教活動を行う場所を指します。

 日蓮正宗の寺院は、それまでの小乗・大乗・法華経文(もん)上(じょう)の三宝(さんぼう)を安置する寺院ではなく、法華経文底(もんてい)の三宝、本門戒壇の大御本尊のお写しである常住御本尊を安置する寺院です。

 また本宗末寺(まつじ)の意義は、総本山大石寺を本寺(ほんじ)とし、総本山に連なる寺院・教会を末寺とする故に、本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下の御指南を根本に、僧俗和合して正(しょう)法(ぼう)護持(ごじ)と地域広布の役割を果たすところにあります。

 また末寺は、根本道場たる総本山の出城(でじろ)として授戒を行う場であると共に、儀式行事を通して、本宗信徒が信心を錬磨(れんま)する帰(き)命(みょう)(自らの命を仏に奉り帰依すること)依止(えし)(徳ある所に止住し離れないこと)の道場です。
 
 寺院と信心
 
 本宗の信仰の基本は、日興上人が、
 

「しでしをたゞしてほとけになり候」(歴代法主全書 第1巻 183頁)


と仰せられるように、本仏(日蓮大聖人)と本師(ほんし)(御法主上人猊下)、本師と小(しょう)師(し)(末寺の住職・主管)、小師と信徒という縦の筋目を重んじ、この師弟(してい)相対(そうたい)の信心により、即身(そくしん)成(じょう)仏(ぶつ)の大功徳を成就することにあります。

 また本宗の儀式・法要は、日蓮大聖人の仏法を化儀(けぎ)として形に表したものであり、この儀式・法要へ参詣して仏祖(ぶっそ)三宝(さんぼう)尊(そん)へ御(ご)報恩(ほうおん)謝徳(しゃとく)申し上げることが肝要です。

 日寛上人が『寿量品談義』に、
 

「一足一足を積んで千里を行くが如く、日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足一足の裏に寂光の都は近づくなり。一辺一辺に大山大海の如くなる仏身を、我が己心にこしらえ立つる程に随分に参詣唱題肝要なり」(同 第4巻 241頁)


と仰せられるように、常日頃から寺院に参詣し、御住職の法話を聴聞(ちょうもん)することは、その教えを生活の中に実践し、罪(ざい)障(しょう)消(しょう)滅(めつ)・即身成仏の功徳を積む大切な修行なのです。
 また親は子に、朝夕の勤行や総本山への登山、寺院の参詣を通し、仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝への信仰のあり方を教えていくことが大切です。
 
 寺院の行事
 
 御報恩御講(おこう)や年中行事等の寺院の法要は、仏祖三宝尊に対する御報恩のほうようです。また、彼岸会・盂蘭(うら)盆(ぼん)会(え)などの法要や塔婆(とうば)・永代(えいたい)回(え)向(こう)などの追善供養は、故人への追善回向を主旨としますが、これらの儀式・法要も御本尊への御報恩を根本とする妙法の四力(しりき)成(じょう)就(じゅ)の功徳のもとに奉修(ほうしゅう)され、その功徳は願主にも回向されるのです。故に、所属寺院が遠方であったり、不便な場所であっても、出来る限り寺院の法要に参詣して御報恩謝徳申し上げることが、功徳善根(ぜんこん)を積む修行となるのです。

 また『一代聖教大意』に、

「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(御書 92頁)

と仰せのように、教学は世間の学問と異なり、寺院に参詣して、相伝の仏法を習い伝える手続(てつぎ)の師から学ぶことが肝要です。

 これらの御講や御会(おえ)式(しき)等の諸行事を通じて、自らの信心を錬磨していくことが大切です。
 
 供養(くよう)について
 
 供養とは仏法僧の三宝に志を捧(ささ)げ、功徳を積む行いをいいます。

 仏法では古来、種々の供養が説かれていますが、おおむね「法(ほう)供養」と「財(ざい)供養」とに大別されます。「法供養」とは、正法を讃歎(さんだん)し弘通(ぐづう)すること、すなわち折伏弘教を実践することです。「財供養」とは、令(りょう)法(ぼう)久(く)住(じゅう)のため、資材や飲食等を三宝に捧げることです。

 『日女御前御返事』に、
 

「かゝる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸ひをまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に灯(ともしび)の如く、険難の処に強力を得たるが如く、彼(かし)こへまはり、此へより、日女御前をかこ(囲)みまぼ(守)り給ふべきなり」(同 1388頁)


と、御本尊への御供養の大切さが示されるように、信心の発露(はつろ)である法供養と、寺院へ参詣して行う財供養は、共に仏法久住のための尊い行業(ぎょうごう)なのです。
 
 広布の法城
 
 日蓮大聖人の御(ご)遺命(ゆいめい)たる広宣(こうせん)流布(るふ)は、僧俗の大目標であります。『異体同心事』に、
 

日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定(いちじょう)法華経ひろまりなんと覚へ候」(同 1389頁)


と仰せのように、私たちは寺院を拠点として、僧俗共に精進するところに、広宣流布の大願も成就することを忘れてはなりません。

 したがって、組織につかず、時々総本山や末寺に参詣すればよいというわがままな信心では、大聖人の弟子(でし)檀那(だんな)とはいえません。また、この一人の信心は我見(がけん)に陥(おちい)りやすく、正しい信仰の道筋を弁(わきま)えることは困難です。故に寺院に参詣し、指導教師の御指導のもとに励(はげ)まし合っていくことが大切です。

 本宗の信徒の組織は、末寺法華講支部と法華講連合会があります。御法主日顕上人猊下は、
 

「この横糸としての連合会の在り方、そして、縦糸としての宗務院、宗務支院、各末寺の指導教師の立場というところが相(あい)まって初めて、真に僧俗和合一致しての広布の進展も存すると思うのであります」(大白法 448号)


と、宗務院・宗務支院の御指導を受けた末寺指導教師の御指導のもと、支部講員が僧俗和合の実践に励む縦の筋道と、連合会への参加による全信徒の団結と活動の横の筋道、この縦横の両面が充実し、さらに円滑(えんかつ)に機能して、日蓮正宗法華講の正しい発展が可能となると御指南されています。

 平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年に向かって、私たちは寺院を信心活動の中心とし、自行化他に励んでいくことが大切です。