罪障消滅

大白法・平成12年12月16日刊(第563号より転載)教学用語解説(66)


 罪障とは罪業による成仏の障(さわ)り、または成仏を妨げる悪い行為のことで、衆生が過去遠々劫(おんのんごう)以来積み重ねてきた様々な悪業・罪業が仏道修行を妨げ、成仏の障害となっていることをいいます。
 
 謗法こそ最も重い罪業

 種々の罪業の中でも、正法を信受せず、かえって誹謗(ひぼう)する「誹謗正法」、すなわち「謗法」が最も重罪であり、これがすべての罪業の根本原因となっています。
 『小乗大乗分別抄』に、
 

「今は又末法に入って二百余歳、過去現在に法華経の種を殖えたりし人々もやうや(漸)くつ(尽)きはてぬ、又種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出世の謗法の者数をしらず国に充満せり。譬へば大火の中の小水、大水の中の小火、大海の中の水(まみず)、大地の中の金(こがね)なんどの如く、悪業とのみなりぬ。又過去の善業もなきが如く、現在の善業もしるしなし」(御書 709頁)


また『兄弟抄』に、
 

「我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ」(同 981頁)


等とあるように、末法の衆生は過去遠々劫以来、重い謗法の罪業を積んだ衆生ばかりであり、その罪業は生命に深く刻み込まれているのです。
 
 仏道修行を妨げる罪障とは

 天台大師は、『摩訶止(まかし)観(かん)』の中で、衆生の罪業が仏道修行を妨げ、成仏の障りとなることを、煩悩(ぼんのう)障・業(ごう)障・報(ほう)障の三障を説いて明らかにしています。

 煩悩障とは、衆生が本来具(そな)えている貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろ)かなどが仏道修行を妨げることをいい、業障とは、倶(く)舎(しゃ)論(ろん)、涅槃経によれば五逆罪(殺父(しぶ)・殺母(しも)・殺(し)阿羅(あら)漢(かん)・出仏身血(すいぶつしんけつ)・破和(はわ)合僧(ごうそう))を犯した悪業が仏道修行を妨げることをいいます。そして報障とは、過去の悪業の報いによって修行が妨げられることをいいます。

 この三障を大聖人は『兄弟抄』に、
 

「煩悩障と申すは貪・瞋・癡等によりて障(しょう)碍(げ)出来すべし。業障と申すは妻子等によりて障碍出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障碍出来すべし」(同 986頁)


と、重い罪業を持つ私たち末法の衆生は、せっかく正法に巡り合っても、貪り・瞋り・癡かといった煩悩の「三毒」が障りとなったり、あるいは妻子眷属の反対や国主・父母等の迫害に遭うなどの障害、すなわち罪障が現れてくると、具体的に判りやすく御教示されています。
 
 妙法信受こそ罪障消滅の方途

 では、この謗法の罪業を消滅し、罪障に打ち勝って、成仏の境界に至るためにはどのようにすればよいのでしょうか。

 これについて『佐渡御書』に、
 

日蓮も又かくせ(責)めらるゝも先業なきにあらず(中略)我今度の御勘気は世間の失(とが)一分もなし。偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし」(同 580頁)


と、大聖人は示同凡夫のお立場から、御自身は妙法弘通を機縁として佐渡配流の大難を受けられたことによって、重罪の悪業を生滅したと御教示されています。

 この御金言は、一切衆生は種々の罪業の故に心身に大苦悩を受け続け、死しては無間地獄に堕ちるのであるが、正法を信受し、様々な迫害・中傷を受けながらも折伏を行じ続けていくならば、その功徳によって、重い罪業を一時に顕し、浄化して消滅することができるのである、と仰せられているのです。

 つまり、過去遠々劫以来、謗法を積み重ねてきた私たちが正法を持ち、折伏を行ずるとき、重い罪業によって様々な障害、すなわち罪障が起こってきますが、これは本来ならば地獄に堕ちて受けなければならない大苦を、正法を信受する大功徳によって現世において軽く受けている姿に他ならないのです。

 『御義口伝』に、
 

「衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し。然りと雖も慧日を以て能(よ)く消除すと云へり。慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり」(同 1799頁)


と、また『聖愚問答抄』に、
 

「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし」(同 406頁)


と仰せのように、大聖人の仏法を固く信受し、南無妙法蓮華経の御題目を自行化他にわたって唱えていくならば、消滅しない罪業など絶対にありません。いかなる重罪も、あたかも陽光に照らされた朝露のように消し果てることができるのです。
 
 強盛な信力で障魔を打ち破ろう

 『兄弟抄』には、
 

「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行(ぎょう)解(げ)既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏(おそ)るべからず。之に随へば将(まさ)に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云」(同 986頁)

と御教示されています。

 様々な罪障が現れ、魔が競い起こるのは、大聖人の仏法が唯一の正法であるからこそであり、また当人の信心修行が進んでいる証左でもあるのです。そのときこそ、いよいよ強盛な信心を奮い起こして障魔に立ち向かっていくことが大切です。恐れて負けてしまったならば、必ず仏道修行から退転することになり、謗法の重罪業のため、現世で様々な苦悩を受け、来世には三悪道に堕ちることになってしまいます。私たちは、大聖人の仏法がいかなる罪業も消滅する唯一の正法たることを確信し、どのような障魔が競い起ころうとも、折伏弘教に勇猛精進していくことが肝要であり、そのような信心に住することによってこそ成仏の境界を得ることができるのです。