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フレブル君日記

フレブルはゆるいよ

若悩乱者頭破七分・有供養者福過十号

 「若悩乱者頭破七分」とは正法誹謗の罰をいい、「有供養者福過十号」とは正法受持の功徳をいいます。

 「若悩乱者頭破七分」は、妙楽大師の『法華文(ほっけもん)句記(ぐき)』に説かれた文で、「若(も)し悩乱(のうらん)する者(もの)は頭(こうべ)七分(しちぶん)に破(わ)る」と読みます。これは法華経『陀羅尼(だらに)品』に、
 

「若(も)し我(わ)が咒(しゆ)に順(じゅん)ぜずして 説法者(せっぽうしゃ)を悩乱(のうらん)せば 頭(こうべ)破(わ)れて七分(しちぶん)に作(な)ること 阿梨(あり)樹(じゅ)の枝(えだ)の如(ごと)くならん」(新編法華経 580頁)


と示される、法華経の行者を悩乱する者の頭を鬼子母神・十(じゅう)羅(ら)刹女(せつにょ)が阿梨樹の枝のように破る、との誓いを釈した文です。

 また『種々御振舞御書』に、
 

「頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂(いただき)が皮の底にある骨のひゞた(狂)ぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり(中略)これは法華経の行者をそし(謗)りしゆへにあたりし罰とはしら(知)ずや」(御書 1071頁)


とあるように、「頭破七分」は「心破作七分」ともいいます。日蓮大聖人は、三大秘法の大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗する者は、頭が破れ、心(精神)が錯乱(さくらん)すると御教示されています。

 次に、「有供養者福過十号」とは、同じく『文句記』に説かれた文で、「供養(くよう)する有(あ)らん者(もの)は福十号(ふくじゅうごう)に過(す)ぐ」と読みます。『薬王菩薩本事品』に説かれている法華経受持の功徳を釈した文です。

 「十号」とは、仏の十種の尊称のことで、如来(にょらい)・応供(おうぐ)・正(しょう)遍(へん)知(ち)・明(みょう)行(ぎょう)足(そく)・善逝(ぜんぜい)・世(せ)間(けん)解(げ)・無上士(むじょうし)・調御丈(じょうごじょう)夫(ぶ)・天人(てんにん)師(し)・仏(ぶつ)世尊(せそん)をいいます。

 同品に、

 「若(も)し復(また)人(ひと)有(あ)って、七宝(しっぽう)を以(もっ)て三千大千(さんせんだいせん)世界(せかい)に満(み)てて、仏(ほとけ)、及(およ)び大菩薩(だいぼさつ)、辟(ひゃく)支(し)仏(ぶつ)、阿(あ)羅(ら)漢(かん)に供養(くよう)せん。是(こ)の人(ひと)の所得(しょとく)の功徳(くどく)も、此(こ)の法華(ほけ)経(きょう)の、乃至(ないし)一(いち)四句(しく)偈(げ)を受持(じゅじ)する、其(そ)の福(ふく)の最(もっと)も多(おお)きには如(し)かじ」(新編法華経 532頁)


と、三千大千世界に満つる七宝を仏に供養するよりも、法華経の一四句偈を受持する功徳のほうが大きいことが説かれているように、法華経を供養する功徳は十号を具(そな)えた仏を供養する福に勝るのである、と賛嘆しています。
 『御本尊七箇之相承』に、

 「本尊書写の事、予が顕わし奉るが如くなるべし。若し日蓮御判と書かずんば天神・地神もよも用い給わざらん。上行・無辺行と持国と浄行・安立行と毘沙門との間には、若能乱者頭破七分有供養者福過十号と之れを書く可し。経中の明文等心に任す可きか」(日蓮正宗聖典 379頁)


と御相伝のように、両文は、御本尊の右肩と左肩にそれぞれ認(したた)められています。

 末法に大聖人の仏法を信ずる私たちは、本門戒壇の大御本尊を正しく受持し、正法誹謗の悩乱者に対して折伏を行じて正法を賛嘆供養すれば、莫大(ばくだい)な功徳をいただくことができるのです。