寸善尺魔に打ち勝とう

信心による寸善尺魔とは、仏道修行者が大きな魔に誑かされていくことをいいます。寸善尺魔の寸善とは小さな善、尺魔とは寸善の十倍もする恐ろしい魔のことで、魔とは煩悩などをはじめ私達の心を迷い悩ませる働きをするものです。

 日蓮大聖人は寸善尺魔について『新池御書』に、

「無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」(御書一四五七㌻)

と仰せです。意味は、無益な事には財宝を使うのを惜しまず、仏法僧の三宝に少しの供養をするのを面倒くさく思うことは、信心修行者においてはこれただ事ではない。地獄の使いが引っ張る力の方が強いのである。寸善尺魔というのはこれであると御指南です。

 寸善尺魔とは、地獄の使いが引っ張る力の方が強いことであり、信心が弱いと大きな魔に紛動され、一生懸命に積んだ功徳を奪われ命をも奪われかねません。

 大きな魔を防ぐには『法華題目抄』に、

「犀の生角を身に帯して水に入りぬれば、水五尺の身に近づかず」(御書三五四㌻)

と仰せです。中国の故事に犀の生角を身に帯せば水に入るとも五尺離れて水に濡れることがない故事と同様に、信心強盛に犀の生角となる御本尊様を受持し御題目を唱えていけば、災い不幸が五尺の我が身を離れて魔が襲いかかることが絶対にできないと大聖人は御教示です。

 私個人の対策としては、大きなことを構えずに小さな目標をこまめに達成しようという方法で挑戦しています。

 唱題行で言えば、いきなり「1時間唱題をしよう」などとは考えずに、勤行とは別に「10分だけでもお題目を唱えさせていただこう」という気持ちで始めます。唱題行は禅定という修行ですから、心を整えるための修行です。整っていない心から始めるわけですから、なかなか集中できずに雑念が湧くことが多いです。でも、御本尊様に向かって10分も唱えれば、不思議と心が落ち着いてきてスムーズに唱題が続くものです。

 朝の出勤前は忙しいですが、本当に10分だけでもいいので、空いた時間で唱えてみますと1日が不思議なくらい順調です。夜の勤行の時も「お線香が燃え尽きるまで」と決めて唱題を続けています。

生活の大半は職場で過ごしますから、職場での自分の振る舞いがどうなるか実感しています。

もうひとつは、御供養です。私のような貧乏人でも、少しずつでいいからと思って御供養させていただいています。

毎月の御講で2000円、春と秋のお彼岸・お盆の法要では、先祖代々と両親の三塔ずつの御塔婆供養。

これだけでも生活が守られ安穏になりつつあります。

できれば年に1〜2回の御登山がしたいですね。

小さな善行を積んで行くことと、それを続けて行くことを目標にしています。