Sさんとの会話から得られた安らぎ

昨日、ラインで知り合うことが出来たSさんとお話させていただくことが出来ました。

遅い時間にお電話して御迷惑をおかけしました。

私にとってとても安らぎが得られたひと時でした。ありがとうございました。

論語の一番最初に、

朋(とも)遠方(えんぽう)より来(きた)る有(あ)り、亦(また)楽(たの)しからずや。

とありますが、志を同じくする人との語らいは心が温められる気がします。

日蓮正宗の信仰をしたけれど、なんにも変わらないやって思うことは多々あるのかもしれません。それは信仰が真っ当にできていないわけでもなく、過去の罪業が深くて深くて沈み込む〜!とかいうのでもなく、平穏無事なのかもしれません。

Sさんの周りにも私の周りにも、先祖代々の御信徒様という方々がおいでになります。Sさんは根檀家という表現をされていました。そういった一族のなかにも、それほど熱心でない方というのはいらっしゃいます。私の周囲にもいます。

Sさんのお知り合いの方は、まさにそういった古い御信徒さんのおうちの方で、Sさんとほぼ同時期に信心を再開されたそうです。それまでは八方ふさがりの四苦八苦だったそうですが、心機一転発心して仏壇にお巻きして仕舞い込んでいた御本尊様を、きちんと御安置して信心修行に励むようになった途端、すぐに功徳が顕れてやることなすことうまくいくようになったそうです。

それにくらべて自分は…と感じることがあったそうです。

私も似たような経験があります。物凄く功徳をいただいているように見える方が周囲におられます。じゃあ自分はどうなのか。みじめなのか?

みじめであるようにも思いますが、守られてるようにも思うのです。おそらく修行中だからかもしれませんね。

それと、先祖代々の御信徒様には、やはり御先祖様の積んで来られた善業の果報というものもあるのかもしれません。それは子孫の繁栄に繋がってくるのではないでしょうか。我々、生きているものが先祖供養をするのと、方向性は逆ですが通じ合うものがあるのかもしれません。

Sさんの所属寺院の講頭さんは、「生活が守られ過ぎて何が功徳なのかわからない」と、仰っているそうです。私の講頭さんも、86歳ですがピンピンしてらっしゃいます。

自分もそうなりたいと思いながら、焦らず腐らずで行きたいものです。