功徳聚

 功徳聚とは、功徳の聚(あつ)まるもの、聚まるところをいいます。日蓮大聖人は『日女御前御返事』に

「曼(まん)陀羅(だら)と云ふは天竺(てんじく)の名なり、此には(中略)功(く)徳(どく)聚(じゅ)とも名づくるなり」(御書 1388頁)

と、功徳聚とは漫(まん)荼羅(だら)の別称であることを御指南されています。

  妙法漫荼羅御本尊 
日寛上人は『法華取要抄文段』に

「夫(そ)れ漫荼羅とは功徳聚(じゅ)集(じゅう)と名づく。今真実の功徳を以て集めて一処に在(お)く故なり」(御書文段 548頁)

と、漫荼羅とは真実の功徳を集めた功徳聚の当体であり、また所在であることを仰せられています。そして『観心本尊抄文段』には

「此の妙法五字の本尊に釈尊の因位の万行、果位の万徳の宝を聚(あつ)む、故に『宝聚』と云うなり。故に此の本尊を亦(また)功徳聚と名づくるなり」(同 229頁)

とあるように、大聖人御図顕の妙法漫荼羅御本尊は、釈尊一代仏教中で説かれた教主釈尊のあらゆる修行(因位の万行)と、その修行によって得た仏界の功徳(果位の万徳)を兼ね具(そな)えた真実の功徳聚であることを
明かされています。

爾前(にぜん)・迹門(しゃくもん)では、釈尊は菩薩(ぼさつ)として無量の長期にわたり六波羅蜜(ろくはらみつ)を行じ、その功徳が満じて仏に成ったことが説かれ、また本門では、釈尊が五百塵点劫(じんでんごう)以前、本因(ほんにん)初(しょ)住(じゅう)の位において菩薩道を行ぜられ、五百塵点劫に成道されたことが説かれています。

この釈尊本(ほん)果(が)妙(みょう)の脱益(だっちゃく)仏法に説かれた一切の因行果徳の二法の万行万徳を一処に集め具えたのが真実の功徳聚であり、それが大聖人の妙法漫荼羅御本尊なのです。
 
真実の功徳聚とは人法一箇(にんぽういっか)の御本尊

「本尊に人有り法有り(中略)是れ則(すなわ)ち諸仏諸経の能生(のうしょう)の根源にして、諸仏諸経の帰(き)趣(しゅ)せらるる処なり。故に十方三世の恒沙(ごうじゃ)の諸仏の功徳、十方三世の微塵(みじん)の経々の功徳、皆咸(ことごと)く此の文底下種の本尊に帰せざる莫(な)し」(同 189頁)

との『観心本尊抄文段』の御文から拝せるように、その真実の功徳聚である漫荼羅御本尊は、久(く)遠(おん)元初(がんじょ)本因妙という仏法の能生の根源、人法一箇・境(きょう)智(ち)冥(みょう)合(ごう)の御当体です。その人法の本尊・境智に、釈尊脱益仏法の一切の諸仏諸経の功徳が具わり究尽(くじん)されています。

 すなわち人本尊は『御義口伝』に

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書 1773頁)

と、末法の法華経の行者である日蓮大聖人をいい、また法本尊は『本尊問答抄』に

法華経の題目を以て本尊とすべし」(同 1274頁)

とあり、さらに『草木成仏口決』に

「一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大漫荼羅なり」(同 523頁)

等と仰せられた、久遠下種(げしゅ)・事(じ)の一念三千の南無妙法蓮華経の漫荼羅御本尊をいいます。

 この人法の本尊は、大聖人の御化導の究(く)竟(きょう)として、弘安(こうあん)二(1279)年十月十二日に「本門戒壇の大御本尊」として御建立されましたが、この大御本尊に認(したた)められた「南無妙法蓮華経 日蓮」の本因妙・人法一箇の境智冥合の法体(ほったい)こそ、仏法根源の真実最勝の功徳聚なのです。
 
 本門の題目 

 日寛上人は『妙法曼荼羅供養抄見聞筆記』に

「本門の題目には、十方三世の諸仏の因果の功徳を具足するなり。故に功徳聚と云うなり」(御書文段 708頁)

と、三世十方の諸仏の因果の功徳が本門の題目に具わることから、本門の題目を功徳聚と仰せられています。本門の題目とは、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることをいいます。本門の題目の実体実義は、本門の本尊たる妙法漫荼羅御本尊にあり、その御本尊以外に成仏の直(じき)道(どう)はないと強盛(ごうじょう)に信じ、その南無妙法蓮華経如来の名号(みょうごう)を私たちも唱えさせていただくのが本門の題目なのです。

 故に『観心本尊抄』に

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に
具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領(りょう)解(げ)に云はく『無(む)上(じょう)宝聚(ほうじゅ)、不求自(ふぐじ)得(とく)』云云」(御書 653頁)

と仰せのように、ただ信心をもって本門の題目を口(く)唱(しょう)するとき、速(すみ)やかに釈尊因行果徳の「無上宝珠」の功徳を自然に得ることができるのです。
 
登  山 

 大聖人は『四条金吾殿御返事』に

「今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功(く)徳(どく)聚(じゅ)の砌(みぎり)なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々(たびたび)の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥(いよいよ)はげむべし、はげむべし」(同 1502頁)

と、大聖人がおられる身延を指して、仏菩薩が住む功徳聚の砌と仰せられました。故に参詣の功徳は、無始以来の罪障も今世において消滅するのであるから、毎年度々参詣するよう強く勧められています。現在では、この「功徳聚の砌」とは、大聖人の御当体たる「本門戒壇の大御本尊」在(ましま)す総本山大石寺であり、大聖人が仰せのように、努めて参詣するよう心がけねばなりません。私たち日蓮正宗の僧俗のみが、登山参詣し、真の「功徳聚」たる大御本尊を拝して功徳を戴くことができるのです。

 そのことを自覚し、これからも「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」
の佳節に向かい、さらなる折伏に励み、共々に広宣流布へと前進していこうではありませんか。

    大白法・平成17年7月16日刊(第673号より転載)