境智冥合

境智冥合とは、境と智が融合した一体の境界をいいます。境とは所観の対象であり、主観に対する客観世界をいい、智とは境を観察する能観の智慧、すなわち認識する心の作用としての主観的世界をいいます。

法華経』の『方便品』に

「諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞、辟(ひゃく)支(し)仏(ぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり」

とあるように、仏の智慧は十法界の一切の事物現象の真理(境)を照らし、一切に通達しているゆえに甚深無量であり、その教えは難解難入です。その仏の深い境智を天台大師は、『法華(ほっけ)文句(もんぐ)』に

「境と智と和合すれば、則(すなわ)ち因果有り、境を照らして未だ窮(きわま)らざるを因と名く、源を尽くすを果と為す」

とあるように、境智冥合とは仏の境智の因果であり、この刹那(せつな)の因果に九界即仏界・即身成仏の境界があることを説きました。

末法御出現の日蓮大聖人は『曾谷殿御返事』に

「法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如(いちにょ)なる間、開(かい)示悟(じご)入(にゅう)が四(し)仏知(ぶっち)見(けん)をさとりて成仏するなり」(御書 1038頁)

と仰せのように、爾前諸経は能観の智である三観が円満に説かれず、また所観の境である三諦も融合していないために境智は各別であり、しかも仏の権智をもって説かれた方便の教えのゆえに成仏の教法とはなりません。

これに対して『法華経』は三観三諦の境智がそれぞれ融合しているので境智一如であり、仏の真実の智慧をもって説かれた完全なる教えのゆえに成仏の教法となる、と御指南されています。

このように、大聖人は『法華経』こそ十界互具・境智冥合の教法であることを説かれましたが、それは未だ天台与同の義であり、下種即身成仏の本義を顕わされてはいないのです。また先の天台の釈文も、境智和合の相を説いてはいますが、本門本地の実体を説き尽くしてはいないのです。

『総勘文抄』に

「釈迦如来五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟(さと)りを開きたまひき」(御書 1419頁)

とあり、それを日寛上人が『観心本尊抄文段』に、我が身地水火風空は境であり、知ろしめされた凡夫即極の本仏の悟りを智と御指南されているように、大聖人の寿量文底下種仏法において解明された本地難思境智冥合の刹那始終の一念には、仏法の本源の当体・凡夫即極即身成仏の功徳が存するのです。

その本地難思境智冥合の当体とは、末法御出現の久遠元初の下種の御本仏日蓮大聖人に他なりません。大聖人は末法の一切衆生救済のために、己心に具(そな)えられた文底下種、事の一念三千を本門戒壇の大御本尊と御図顕されました。

ゆえに私たちは、大御本尊を唯一絶対の正境と確信して至信(ししん)に唱題に励(はげ)むとき、大御本尊の境と自身の信ずる一念が智となって境智冥合し、そこに初めて即身成仏の大利益を得ることができるのです。

     大白法・平成8年8月16日刊(第461号より転載)