機を知る

 「機」とは
 
「宗教の五綱(ごこう)」のうち、二番目に当たるのが機です。機とは、衆生が仏の教えを受けとめようとする心の状態、また教法に対しての衆生の能力をいいます。

釈尊在世に舎利弗(しゃりほつ)は、洗濯業の者に数息観(すそくかん)(出入の息を数えることによって心の散乱を収め、心を静め統一する観法)を教え、鍛冶職の者に不浄観(ふじょうかん)(肉体や外界の不浄な様相を観じて、煩悩・欲望を取り除く観法)を教えたため、それぞれが一向に悟りに至りませんでした。そこで釈尊は洗濯業の者に不浄観を、鍛冶職には数息観という、相応の修行方法を教えて道を悟らせたと言われます。

このように、法を説くには衆生の機根(きこん)・機応(きおう)を知ることが大切です。日蓮大聖人は

『教機時国抄』に、「二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし」(御書 270頁)

また『佐渡御書』に

「正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道な(成)るべし。千経万論を習学すれども時機に相違すれば叶ふべからず」(同 579頁)

と、法を弘めるには、機根を知ることが大事であることを御教示されています。「機」とは「可発の義」、仏の教えを受けて発動する衆生の心の
状態をいい、また「根」とは仏道に対する衆生の能力をいいます。
 
 「機」の三義
 
天台大師は『法華玄義』の中で、「機」について、

「機に三義あり、一には機は是れ微の義なり。二には機は是れ関の義なり。三には機は是れ宜の義なり」

と説かれています。

一の「微(び)の義」とは、「微妙な心の動き」ということで、仏を感ずる衆生の微妙な心の動きをいいます。二の「関(かん)の義」とは、仏と衆生との関わりということで、仏の慈悲に関わることによって、衆生の善心が生ずることをいいます。三の「宜(ぎ)の義」とは、衆生には千(せん)差(さ)万別(ばんべつ)の機があり、その宜(よろ)しきに従って、仏は種々の法を説くということです。

これらの三義は、衆生その人その人の仏道に対する関わりを説き明かしたものですが、同時に、また衆生の「機」は、衆生に応じて出現し、法を説く仏の応と切り離しては考えられないことも示しています。
 

 「熟脱(じゅくだつ)の機」と「下種(げしゅ)の機」
 
一切衆生の機根を大別すると「熟脱の機」と「下種の機」に分けられます。日寛上人は『報恩抄文段』に

「第二の機とは、正像二時は本已有善の故に下種の善根を熟(じゅく)し、末法は本未有善なる故に、直ちに三大秘法を以て下種と為すなり」(日寛上人御書文段 463頁)

と、二種の機根について示されています。「熟脱の機」とは、仏の最初下種益(げしゅやく)の化導を受けた折に逆縁となり、また退転したために、後に熟益(じゅくやく)・脱益(だっちゃく)の化導を受ける衆生の機根をいいます。これらの衆生は、已(すで)に久遠の昔に下種をされて善根を有しているので「本(ほん)已(い)有(う)善(ぜん)」の衆生と言います。

すなわち釈尊の在世や正法時代・像法時代に生まれ、仏道を行じた機根の人たちです。これに対して「下種の機」とは、仏種を未だ心田に有していない荒凡夫(あらぼんぷ)のことで、これら衆生は久遠の昔に仏種を下されておらず、成仏のための善根を有していないので「本(ほん)未(み)有(う)善(ぜん)」の衆生といいます。すなわち末法の衆生のことです。

末法は五(ご)濁(じょく)悪(あく)世(せ)の時代であり、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三(さん)毒(どく)強(ごう)盛(じょう)の衆生が充満する時代です。したがって、機根の低い人ばかりが充満する末法においては、熟益や脱益の釈尊の仏法ではなく、下種仏法すなわち大聖人の三大秘法の教えでなければ、衆生を救っていくことはできないのです。

つまり末法の衆生は、久遠元初の御本仏の下種の妙法をもって、折伏逆化すべき最初下種の機縁であると知ることが「機を知る」ということなのです。
 
  随機説法は誤り
 
創価学会は「仏法は民衆が主役です」などとしきりに言っていますが、これは「機」偏重の我見です。日蓮大聖人は『撰時抄』に

「機に随って法を説くと申すは大なる僻見(びゃっけん)なり」(御書 846頁)

と、時を無視して、衆生の機根に応じて法を説くことは大きな誤りであると仰せです。大聖人の御在世にも、各宗の祖師は、衆生の機根を主とし、法を従として、それぞれ勝手に適当と思われる法を説いています。

もちろん一切衆生救済のために仏法が説かれたことは間違いありませんが、末法という時と、その時代の衆生は本未有善の衆生ですから、御本仏が御出現あそばされ、南無妙法蓮華経の大法を一切衆生に与えられたのです。よって、その妙法を受持信行するところにのみ、私たち末法の衆生の成仏があるのです。

『教機時国抄』に

「謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓(どっく)の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し」(同 270頁)

と仰せのように、末法においては久遠元初の仏が出現して、妙法をもって折伏逆化するべき最初下種の機縁となっていることを知ることが機を知ることです。

一切衆生の機根は千差万別ですが、これら衆生が成仏できるのは、大聖人の南無妙法蓮華経の仏法によってのみ可能なのです。この強い確信のもと自行化他の唱題に励み、広宣流布達成に向けて、いよいよ折伏を実践してまいりましょう。

   大白法・平成15年2月16日刊(第615号より転載)


創価学会の活動は公明党の選挙活動と、聖教新聞の購読推進でしょうか。あとは財務という資金集め。これらに功徳があると随分昔から組織内で浸透させていました。

私が幼いころ、家で聖教新聞を3部も購読していたり、選挙の一票獲得は一人下種であるとか言っていました。折伏するより、他人に頭を下げて公明党のお願いをする方が楽なのかもしれません。

平和とか文化とか、福祉とか…主張内容は共産党とどっこいどっこいですね。何がしたいのか全く分かりません。