便利と幸福は違う

江戸時代の生活と、現代の生活と比べたらどちらが幸せだったのでしょう。普通は、「現代の方が幸せだ」と答えます。何故かというと電気はある、掃除機はある、テレビはある、冷蔵庫はある、トイレは水洗、本当に便利です。

江戸時代は何もないのです。トイレは汲み取り、電気はないし、電気の代わりにロウソクはありました。そのように考えてみると江戸時代は、不幸なように見えるのです。「だから江戸時代は不幸だ」と言いう人もいます。「日本精神などと言って、また江戸時代に戻りたいのか?」という人もいます。

江戸時代を見直した時に、「江戸時代に戻ってもよいのではないか」と僕は思います。昔の人は、便利な物は何も無かったのですが、幸福でなかったとは言い切れません。ロウソクで生活するのも、おつなものではないですか。薪でご飯を炊くのも、おつなものではないですか。昔は、ご飯を1日1回ごと炊いて後は、おひつに入れてしまうのです。朝は炊いた飯を食べて、後は冷たくなったご飯を食べていたのです。そのような生活もよいのではないでしょうか。

江戸時代はそんなに物がないのですから、洗濯も手でごしごし洗っても、現代のようにバンバン洗濯物が出るような事はないのです。江戸時代は、同じ着物を何日も着ていたのです。何日も着ているので、洗濯もそんなに無いのです。毎日洗濯をして手があかぎれになるなどウソで、そんなに洗濯する物はありません。赤ん坊がいるとおしめを毎日洗わなければいけませんが、その程度です。どうってことないのです。

江戸時代は、結構みな楽しく生活していたのです。それで、雑音がないのです。雑音が無いのですから、風が吹けばヒューと吹いてくるのです。それをどうするかというと、屏風(びょうぶ)で覆うのです。昔の家は隙間があるのでビューと風が入ってくるのです。すると、風が人間に当たるのですが、寝る時には屏風を枕元に立てると、そこは風が来ないのです。そのような工夫があったのです。それもよいではないですか。

考えてみると江戸時代はよいのです。現代のようにあわてる必要がありません。満員電車に乗せられて寿司詰めにされて、あっちだ、こっちだと乗り換えもありません。生活の流れが一定化しているので、仕事が終わってから私生活という感じではないのです。

江戸時代は、仕事の中に私生活が入って、私生活の中に仕事が入って混然一体となっているから、むしろ充実感があるのです。現代では5時に仕事が終わりました。後は何をするのでしょう。毎日、毎日、飲みに行くのでしょうか? これは仕事、これは私生活、日曜日は休み、ということになっていますが、流れる生活の方が楽しいと思います。

江戸時代は、土曜日も、日曜日もないのです。休みは盆と暮れしかないのです。丁稚小僧(でっちこぞう)に入ると一年中働くのです。今とは全然、感覚が違うのです。江戸時代は、落ち着いて一つの仕事をやっているので、現代の人間はとてもかないません。江戸時代の職人の技など真似できないのです。

何も無いから晴耕雨読なのです。雨が降ると家にいて本を読み、晴れたならば外に出て畑や田圃を耕すのです。雨が降ったら、テレビもラジオもないのですから娯楽は、本を読むことしかないのです。本を読む事は、それだけ頭が良くなるのです。昔の人は本を丸暗記しています。それも楽しいのです。辞書もないから覚えなければなりません。辞書とか、コンピューターがあれば、いつでも書いてあるから覚えません。必要な時に調べれば出てくるのです。ところが、昔は覚えていなければならなかったのです。
日蓮大聖人様は、八万六千の法蔵を全て読んで暗記していたのです。経典は持って歩くわけにはいかないのです。膨大な量で、リュックみたいな物に入れたとしても、巻物など五巻くらいしか入りません。法華経だけでも二十八品あるのですから、そんな量はとても入りきれません。本当に身近な物しか持っていないのです。それもまた楽しいではないですか。

ずっと同じことをやって深めていくと、人間は精神的に安定します。僕はそういう事が好きです。晴耕雨読=雨が降ったら読書、晴れたら畑や田圃を耕すのです。いいですね。自分で耕して自分で食べるのです。無農薬農業ですから、最高です。

江戸時代は、年をとったら若い人に経験を教える。これもまた楽しみです。今は年寄りから教わることなどありはしません。年よりは、「年寄で邪魔なのだよ! 姨捨山に行って来い!」です。もう年を取ると粗大ゴミ扱いです。介護老人ホームなど姥捨て山です。「死ぬまでそこにいろ!」ということですから、まさに現代の姥捨て山です。

今の社会は、姥捨て山に入るために生きているようなものです。人間の生き方は、本来そういうものではないのです。昔の方が悠々としているし、伸び伸びとしているし、何も無いからこそ、人間としてやらなければならないことがたくさんあります。

例えば、硯(すずり)に向かって墨を磨ります。結構楽しいのです。だんだん黒くなってきて、字も筆を持って自分で書くのです。本も無いので書き写さなければなりません。これも楽しいのです。雑音が無いから邪魔されません。現代のようにテレビなど無いのです。その代り原発の心配もなく、放射能の心配もありません。

すると、静かな、静かな生活で、江戸時代は不幸な生活であったとは僕は思いません。むしろ、幸せだったかもしれません。現代人が持っている騒音、テレビ、お笑いタレントの話、或いは殺人事件など聞かなくていいような話を毎日聞かされて、これは楽しいとは言えないのです。

それで、現代では時間がどんどん短くなってきているのです。昔は江戸と大坂を往復すると、歩いていくので片道で14日かかったのです。今は新幹線で行くと2時間20分です。ということは、それだけ時間が短縮されてきているのです。これがリニアモーターカーを使うともっと早くなってしまいます。

そんな旅は楽しくありません。何日もかかりてくてく歩いて、あっちを見て、こっちを見ながら行くから楽しいのです。2時間20分で東京から大阪に着いてしまったら、見るものは何もありません。どんどん現代社会は、自分の持ち時間が短くなっているのです。

江戸時代は、時間がゆったりしていたのです。ですから、必ずしも昔が悪かったとは言えません。幸福感から言えばそうなのです。便利感から言ったら現代の方が良いに決まっています。「どちらが便利ですか?」と聞かれたら、それは間違いなく現代です。便利感と幸福感を一緒にした考えをしてはいけません。

ただし、これは世界平和が実現しなくては無理だということも、書き添えていなくてはならないでしょう。我々が江戸の文化を捨てなければならなくなったのは、外国からの侵略を防ぐという目的のためですから。

そのためには日蓮大聖人様の仏法を、広宣流布させるより他に手立てはないのです。今の日本が文明を捨てれば、中国や韓国にあっというまに侵略され奴隷にされてしまうでしょう。

立正安国論の精神とはそれなのです。