広布唱題会・墓参・父の六七日法要

朝は豪雨に見舞われた徳島市内。

お寺に行く前には家族で、「今日は御墓参り無理だね」と話しておりました。

9時からの広布唱題会に参詣して、お天気が良くなってきたので11時からの法要の前に墓参できました。

こんなにお墓参りしたのは人生で初めてです。

かつての僕は愚かにも、遺骨に敬意など払ったことがありませんでした。墓参に意味があるなどとも考えたことがありませんでした。先祖代々って言葉がありますが、先祖をずっと遡っていけば久遠元初にいたるなどという、遠大な智慧が全くありませんでした。折伏にも「生きている」世界の折伏と、「非情」(一見すると生命のない)世界の折伏もあるのだということも知りませんでした。御塔婆供養には非情世界への折伏という意味もあるのだそうです。顕正会創価学会では聞いたこともありませんでした。真夏の御墓は一週間で荒れてしまいます。お水は赤茶けてしまっていますし、お樒もくたくた。きれいに洗って、お樒を取り換えて御線香を供え、汗だくになりながら家族で自我偈・唱題しました。

父の法要もいよいよ六七日。来週はいよいよ四九日になります。父の遺骨も納骨となります。

このブログの書き始めでは、父への恨みつらみを書きなぐった時期もありました。父の臨終直後の相に驚いたりもしました。

でも、今は父も大きな功徳の回向に浴し、中有にて安穏となっていると信じられるようになりました。四九日の法要が終わると父には自己決定権が与えられるのだそうです。日蓮正宗できちんとご供養を受けた精霊は、すぐに業因に引き寄せられて生まれ変わるのではなく、自分の次の生命を使命として全うできる境涯を得るため、自受用できるのだそうです。まさにこれこそが成仏の姿なのだそうです。

父が仏様の智慧をその身に受させていただいて、再び僕と出会える時が来ることを静かに待ちたいと思っています。