喪失感(愛別離苦)を乗り越えて 慈本寺御住職の法話

 

「ちりしはな をちしこのみもさきむすぶ などかは人の返えざるらむ」

【ロス症候群】
 最近、みなさんも「○○ロス」という言葉を耳にされる機会があろうかと思います。
 少し古いですが、好きなドラマが終わったときには「あまちゃんロス」、好きな俳優が結婚したときには「福山ロス」などと使われました。
このように、芸能界などのテレビの世界のことで冗談半分に使われるうちはいいのですが、実生活の中では、大切な人などを失って「パートナーロス」「父ロス」「母ロス」「ペットロス」になる方が多いようです。

 そもそもロスとは《Loss》= 失う、喪失という意味で、「〇〇ロス」と使われる場合は、大切な存在や物を失うダメージによる精神的・身体的不調のことを指します。
 愛する家族やパートナー、またペットを亡くした場合は、喪失感が大きく、この「悲しい」という感情が強すぎて、長く引きずる場合は「ロス症候群」と呼ばれます。
 ロス症候群にまでなると、情緒不安定、疲労や虚脱感、無気力、めまい、摂食障害(拒食症・過食症)、錯覚、幻覚、妄想、胃潰瘍などの消化器疾患、心身症などのうつ病のような症状が現れる様になります。
 ロス状態が進行すると、このように心身に大きなダメージを与えることもしばしば起こるのです。
 さらに、生前中の関係性が悪くても「ロス症候群」になる場合もあるそうです。
 仏法では、この「ロス症候群」を「愛別離苦」といい、どんな人にも「愛する人と別れる苦しみはある」と説きます。

【母ロス】
(※参考AERA2017年7月10日号)
 一般的に、欧米では配偶者を失った場合に対象喪失反応が出やすいのに対し、日本では親を失った時に顕著なのだそうです。
 なぜなら、欧米では配偶者同士の絆が強いのに対し、日本では親子間の距離が近いため。また、父親より母親を亡くした時の喪失反応が強いのは、それだけ母子関係が強いからだそうです。

一般的な母ロス反応として

(1)心身の不調

(2)故人のことばかり考える

(3)故人の死にまつわる罪悪感

(4)敵意のある反応

(5)喪失前に果たしていた役割がうまく果たせなくなるなどがあるそうです

また、アンケートなどでよくあげられる意見として、

・まだ母の死を受け入れられていない

・母の見送り方や治療法に「後悔」や「自責の念」があるそうです。
 母親が亡くなった場合、混乱して自己コントロールを失って冷静な対応ができ なくなり、攻撃的な衝動が表れる方がいるそうです。それが医師や看護師などの病院関係者に向くこともありますが、自分に向かった場合は、罪悪感や自責の念になるそうです。

ロス = 失って悲しい、という感情は人なら誰しもが感じて当然ですが、なぜのようにいつまでもロスが長引いてしまうことがあるのでしょうか?

 メンタルが強い、弱いと言う個人差だけではなく、そこには失ったものとの関係性に主な原因があるそうです。
 その失ったものが存在したからこそ、自分が成り立っていたという、いわば「依存」の気持ちが強いほど、ロスの症状は深く長くなります。
「依存」というと、メンタルが弱く、頼って生きてきたというイメージになりますが、決してそれだけではなく、深い愛情をかけ接してきたということでもあるそうです。

【ロスから立ち直るための回復法】
 ロスは、大切な存在を失ったときに通過する、悲しみや喪失感の体験です。これは、誰もが必ず経験する感情体験であり、なんら特別なことではありません。

「雑譬喩経」という仏典に《我が子を亡くした女性の説話》が説かれています。『ある女性が男の子を産んだ。ところが、子供が歩き始めるほどに成長した時、突然、病気で死んでしまった。
 彼女は悲しみで気も狂わんばかりに泣き叫び、子供の遺体を抱きかかえ、薬を求めて町をさまよい歩いた。
「どうか、この子に薬を与えてください」
人々は哀れんで、
「気をしっかり持ちなさい。もうその子は亡くなっているのだよ」
と言ったが、彼女はけっしてあきらめなかった。ある人が見かねて、釈尊のもとに行くように勧めた。
 彼女はすぐに釈尊を訪ね、
「お釈迦様、この子の薬を教えてください」
と教えを請うた。釈尊は答えられた。 
「それは簡単だ。※を五、六粒もらってきなさい。ただし、一度も人が亡くなったことがない家からもらってくるのだよ」
 彼女は近くの村へ走り、ある家を訪ねて、芥子粒を分けて欲しいと願った。家の人は、快く芥子粒をくれた。 
 しかし、 
「お宅に、亡くなった人はいますか?」
と尋ねると、 
「もちろんです。生きている者より、死んでいった人の方がずっと多いのですよ」と言う。彼女は、残念そうに芥子粒を返し、他の家々を尋ね回ったが、亡くなった人のない家は、一軒もなかった。辺りが暗くなった時、彼女は、あることに気が付いた。 
 そして少しずつ落ち着きを取り戻し、静かに子供の遺体を抱いて森に入り、手厚く葬って、釈尊のもとへ戻った。釈尊は尋ねられた。 
「芥子粒はもらえたか?」
「いいえ。生きている人より死んだ人の方がはるかに多いことが解りました。」釈尊は静かに教えられた。
「お前のかわいい子供だけではない。死は生きる者の逃れられない定めなのだよ」 
 彼女は釈尊の弟子となり、修行に励んで死別の悲しみを乗り越えることが出来た。
 ※芥子粒(芥子の種。料理等で使用する)』(妙教281号 71頁)
 このように、ロスから早く立ち直るためには、亡くなったという事実を受け容れて、心の整理を行うことが大切です。

 大聖人様の『持妙尼御前御返事』(御書1044頁)を拝しますと、
『ちりしはな をちしこのみもさきむすぶ などかは人の返えざるらむ』
(散った花や落ちた木の実も、春にはまた咲き、秋には再び実を結ぶのに、なぜ故に人間だけは一度死んだら再び生きて来ないのか)         
と、持妙尼御前へ古歌を紹介されています。
持妙尼御前は、ご主人高橋六郎兵衛入道の病を機に出家され回復を祈られました。しかし、夫の寿命は尽きてしまいます。
失意の夫人に寄り添おうとされた大聖人様の大慈大悲が伝わってきます。夫の生前は病で信仰心をし、他界後も供養の念を促してくれる存在であり、夫こそが善知識であると気づいた持妙尼御前は、強く生き抜くための一歩を踏み出せたのではないかと拝します。
 大切な家族との別れは、時代や世代を超えて悲しみの極みです。人の命は無常です。いつかは必ず別れの日が来ます。永遠に皆で、ずっと一緒にいたいと願うならば、揃って正しい仏道を共に修行することが大切です。
 そして、共に仏界へ入る。それ以外の方法は、どこにもないのです。

【今生人界の本懐を遂げる】
 日蓮大聖人は、わが子を亡くした光日尼(こうにちあま)に、
と仰せになられていますが、御本尊様の御慈悲は同じように、現代の我々にも注がれているのです。

『持妙法華問答抄』に、
「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(御書300頁)
という有名な御文があります。
「すべての心を南無妙法蓮華経一筋に定め、ご自身も南無妙法蓮華経と唱え、他人にも南無妙法蓮華経と勧めることが、今生に人として生まれた良い思い出となるのです。」という意味です。
 本懐を遂げるというと、主君の仇討ちを果たした「忠臣蔵」のような華々しいイメージを持つ方もいますが、「人として生まれた値打ち」「命をかける価値」は、この日蓮大聖人様の教え、大御本尊様にこそあるのです。
 そして、世の人々へ大聖人様の教えを説き、一人でも多くの方が大聖人様の御慈悲に浴することが出来るよう務めるのです。
 そういう生活を送っていれば、大切な人を失ったときに、治療法や見送り方に「後悔」や「自責の念」を持つことなどあり得ません。

 現代は、治療法一つとっても、様々な方法があります。標準治療と言われるものの他に、「切らずに治す」「ガンが消える」などと公言する怪しげな治療法やサプリメントが氾濫しています。
 有名人や金持ちであるが故に、様々な思惑を持った怪しい人達が集まってきてしまうという実相があります。薬事法に引っかかって逮捕される人が毎年いますが、それも氷山の一角のようです。
 また、例え高名な大学病院であっても、記者会見をする有名人の治療だからこそ、執刀医が名聞名利に走って無理な手術をし、かえって寿命を縮めてしまうケースもあるように見受けられます。
 しかし、この信心を日頃から実践していれば、その人に合った医師や治療に必ず巡り会わせていただけるのです。これが大きな功徳です。

 先月の『病苦を乗り越える』という法話の中で、担当医が家族を呼ぶような重体の方の奥さんが、看護婦さんに許可を得て、家族でお題目を唱えながら御秘符を研いだ水を含ませところ、息を吹き返したというお話をしました。
 その後の経過を所属寺院の御住職にお聞きしましたら、随分回復なさったとのことでした。ご本人は、御秘符を飲ませた奥さんに「美味しい、もっと欲しい」と話された事は、全く覚えていないと言っているそうです。いずれにせよ、御本尊様に寿命を延ばして頂いたのです。
 しっかり信行に励んでいけば、仏の智慧を授かって行動できますから、亡くなった方へ「もっと、こう言ってあげれば良かった」「こうしてあげれば良かった」と後悔することもありません。
 また、最期、しっかりと自行化他に励んだ方ならば、「大聖人様がお迎えに来て下さる」という大安心感の中におられるでしょうし、送る側も「絶対に成仏させていただける」という確信をもって葬儀が執行できます。
 ですから、日蓮正宗の葬儀は、大切な方を亡くして悲しくはありますが、清々しく、悲壮感が漂っていないのです。
 そうは言っても、御本尊様の前に座る気力も出ずに、全く立ち上がれない方もおられるでしょう。そういう方のために、お寺があり、住職がいて、法華講の仲間がいるのです。
 悲しみが癒えるまで、時間がかかる場合もあるでしょう。
故人に対する自責の念に、押しつぶされそうになることもあるでしょう。  しかし御本尊様を信じ、祈っていけば、必ず前を向いて、故人や別れてしまった人の分までも、生命力を強くして進んでいくことができるのです。 

日蓮大聖人は『上野殿後家尼御返事』で、
『故人は成仏してるのは疑いがないので、嘆かなくともよい。しかし、最愛の人を亡くして身を斬るような思いで嘆くのは凡夫の常なので、追善回向に励んで、九識(妙法への信心)を深めて、六識に起こる死別のをも信心の糧にせよ』(趣意 御書338頁)
と、成仏して亡くなった方への追善回向の意義を御指南されています。
 供養に遅すぎることも、やり過ぎという事もありません。毎月一日の先祖供養、お盆やお彼岸、祥月命日に供養を怠らなければ、まず、絶大なる御本尊様の功徳によって自らに徳が付き、人から信用され愛される人間にならせていただけます。
 そして、悲しみを受け止め、乗り越えられる強い自分へと成長出来るのです。さらに、その経験をもとに、同じように悲しむ人を思いやれる人となることができるのです。
 私達は、嬉しいときも、辛く哀しいときも、共にお題目を唱えていくのです。
 御法主日如上人猊下様は、
「苦しい時も楽しい時も南無妙法蓮華経と唱えていくことが解決のための一番の道、最善の方法なのです。だから本当に困った時、苦しい時、うれしい時、楽しい時、常に南無妙法蓮華経と唱えていきなさいというのが大聖人様の御金言の意味であります。このように、どんな時も、お題目を唱えていくことが大事なのです。」(信行要文4ー154頁)
と御指南くださっています。

 まだまだ暑く、唱題会に参詣されるのもつらいかも知れませんが、暑いから休む、休むから元気が出ない、元気が出ないから唱題会に行けないという、悪循環に陥ってはいませんか?

 元気が出ないときこそ、御本尊様から元気を頂いて、この猛暑を乗り切って参りましょう。

      住 職 小橋 道芳